堂々と異なれ、「らしさのタネ」を見つけて磨く【PRプランナー西楽結さん後編】

前編では、PRプランナー西楽結さんの現在の活動や大切にしている想い、独立までのストーリーを伺いました。

この後編では、生い立ちや、現在の活動の原点となった大学時代の話、市役所職員時代の葛藤、母とのエピソード、今後のビジョンなどを聞きました。

西楽 結(Nishiraku Yui)

PRプランナー / MUSUBI LAB.代表

市役所での広報部門マネージャーなどを経て、2023年にPRプランナーとして独立。関西・北摂エリアを中心に、主に地方企業に向けたPR・ブランディングのコンサルティング・伴走支援を行う。2024年からひょうご産業活性化センターの経営専門家としても活動中。

孤独が彼女にもたらしたもの

西楽結さん(以下、結さん)は1985年、兵庫県川西市に生まれた。幼い頃は、自然豊かな野原や公園で2歳下の弟と駆け回り、木登りなどもする活発な子だった。

彼女は新聞記者の父と編集者の母のもとに育つ。父は夜勤明けで早朝にタクシーで帰宅する生活、母も海外出張があるほどバリバリ仕事をこなしていた。

小学生時代、両親に運動会に応援に来てもらった記憶はない。中学生の頃には食事などの身の回りのことは自分でやっていたと言う。

世の中への影響力を持つ仕事をする両親を誇りに思う一方、心のうちには埋まらない空白があった。

「友人の家では、お母さんが『おかえり』って言っておやつを出してくれると聞いて、羨ましく思っていました。どうして私のお母さんはみんなと違うんだろう、と、淋しさから、母に反抗的な態度を取る時期もありました」

孤独は彼女に自立心を育てた。孤独を知る彼女は、他人の淋しさや悲しみにもよく気が付いた。そうした力は、困っている人がいたら放っておけないやさしさや正義感のある人間性を培っていく。

中学生から始めたバドミントン部では、上下関係が厳しい環境だった。結さんたちが上級生になった時に「後輩に理不尽な指導をするのはやめよう」と話し合った。

高校生では、体育委員や学級委員を務めた。特定の誰かとばかり一緒にいることはなく、誰とでも等しく仲良くし、困っている友人がいたらそっと側に行って声をかけていたと言う。

メディアによる地域活性化の可能性への興味

結さんは両親の仕事の影響もあり、子どもの頃から情報を文章で届ける仕事に興味を持っていた。メディアの役割やそこでの仕事について学べる大学を志し、関西大学社会学部(マス・コミュニケーション学専攻)へ進学する。

ここに今の彼女の原点となるエピソードがある。それは彼女の卒業論文だ。タイトルは「SHINJOの北海道上陸」。2006年に北海道日本ハムファイターズが日本一を達成した事例から見た、プロスポーツが地域にもたらす影響についてまとめられたものだった。

「父親はスポーツ紙の新聞記者だったので、プロ球団とも縁があり、特に阪神タイガースの試合をよく観に行っていたんです。私も野球が好きになり、阪神時代に『虎のプリンス』と呼ばれた新庄剛志選手が、メジャーリーグへの挑戦後に日本ハムへ移籍したのは注目していました」

「私が大学へ入学した2004年、日本ハムが東京からプロ野球未開の地だった北海道へ球団の拠点を移すと同時に、スター選手の新庄選手が入団しました。新庄選手の活躍や言動がメディアの注目を集め、その盛り上がりが地域を団結させて強固なファンをつくり、成績不振だった日本ハムが悲願だったパリーグ制覇・日本一・アジアチャンピオンを達成するという、ドラマチックな展開が生まれました。この一連の出来事に感動し、ぜひ論文のテーマにしたいと思いました」

「盛り上がりの渦の中心にはメディアの『広く・早く・正確に』伝える力が関わっていて、メディアの働きによって人々の行動変容を生み、球団と地域が一丸となって盛り上がっていく過程も興味深かったです」

彼女は夢中になり、4万字の論文を書き上げた。通常は2万字程度だそうだ。地域活性化とメディアや広報の相関に、当時から高い関心を持っていたことが伺える。

しかしながら、その後の就職活動で、結さんはテレビ局や新聞社を受けることはなかった。

「マスメディアでの仕事は、「表現の自由」や「知る権利」を追求し、取材対象を傷つける可能性があると思ったからです。大学時代のカフェや洋菓子店での接客のアルバイトを通じ、あたたかいコミュニケーションで人に喜んでもらえる仕事がしたいと考えました。当時は頭の中に広報という仕事の選択肢が無かったので、就職活動ではウェディングやレストラン、ホテル業界を中心に受けていましたね」

幼い頃から、他者への思いやりの気持ちを大切に人間関係を築いてきた彼女らしい選択だ。

専門家として生きていく決意

結さんは社会人となり、レストラン運営会社での接客業、大学での事務職員を経て、大阪府内の市役所に入庁する。公務員という立場は、「フラットで正義感の強い自分の性格に合っていた」と語る。

そのキャリアは保育所・幼稚園の担当から始まり、晩年は広報や産業振興など、創造性が求められる企画色の強い仕事に従事する。

市役所での仕事は、社会課題を通じていろんな分野の世界を見ることができ、多くの人の役に立っている実感が持て、やりがいがあった。

市役所職員時代の結さん

結さんは持ち前の勤勉さで、同期の中でも早くマネージャー職に就いた。彼女を頼る人も多くなっていった。しかし立場が上がると、周りからの期待に応えなければというプレッシャーが強くなった。当時は、暗闇の中を1人で走っている感覚だったと語る。

「職場の周りの人から見たら『意欲がある人』に見えていただろうし、当時の上司もどんどんステップアップするよう期待してくださっていました。市役所の行政職は3〜5年で部署異動する人が多く、オールラウンダーな人を育成するシステムです。市民の幸福の追求をする仕事を誇りに思っていた一方、この先、部署を転々として専門性が身に付かずに、キャリアを重ねていくことに不安がありました」

「周りに尊敬できる人はいましたが、自分らしく楽しそうに働く人はあまりいませんでした。ロールモデルを見つけられず、組織の中に埋もれていく感覚に息苦しさがありました」

その苦しさは、自分らしさを活かしていきたいというサインだった。

キャリアに悩む中、プライベートでは大阪の都市部から兵庫県猪名川町に移住し、結さんが望んでいた自然と調和した暮らしへとシフトする。

移住後、都会で暮らしていた時に感じていた窮屈さから次第に自由になり、のびのびと自分らしく笑えるようになっていく。人から言われたキャリアビジョンではなく、自分の心に正直にありたい姿を描くようになった。

彼女の将来像が具体化したきっかけは、市役所での産業振興担当時代、大阪府内の事業者支援機関にて活躍している女性の専門家の先生との出会いだった。

その先生は、中小企業診断士としての専門知識と多数の支援実績を生かし、行政から補助金事業の審査員を委託されるなど、組織の内外からとても頼りにされていた。

「先生の凛とした姿に刺激を受け、私も専門分野を持って、自分の名前で社会から必要とされる存在になりたいと考えるようになりました」

「産業振興の前に5年間担当していた広報の仕事は、とても前向きで、関わる人を幸せにすると実感していました。もっと知識をつけて、『広報の専門家』と言われる存在になりたいと思うようになりました」

こうして彼女は、大好きな広報のプロフェッショナルになるべく、PRプランナーの勉強を始めたのだった。

母の背中と女性のキャリア

結さんは市役所勤務時代に出産した際、産後3ヶ月で復職している。仕事や人と関わることが大好きで、家で閉じこもっているのが耐えられなかったそうだ。

周りには、自分と同じように仕事を生きがいにするような女性は見当たらなかった。自分は世の中の“普通”とは違うのだと感じ、自分らしさを押し込めるようにしていたと語る。

「誰かに何かを言われたわけではありませんでしたが、復帰の早さに驚かれることが多く、私って変わっているのかな、仕事が好きじゃいけないのかなと思っていました」

そんな時、ずっと仕事の第一線で活躍している結さんの母から、次の言葉が贈られた。

「人と違うと思えるところが、あなたのアピールポイントなのよ」

この言葉は、彼女の心をゆるめてくれた。

「公務員だったこともあり、いつしか自分らしさを出してはいけないと考えるようになっていました。自分の意見を通すよりも、全体の利益を優先する生き方をしてきました。母の言葉は『私は、私でいい』、『自分に正直に生きてもいい』と思わせてくれました」

仕事に邁進し社会と対峙する母の背中を見て、彼女は育ってきた。

「社会で活躍する女性の姿を見せてくれている母に、いつか認めてもらいたいと思って生きてきたように思います。そんな私にとっては、この言葉はイレギュラーで、自分を認めてもらったようで嬉しかったです」

また自身が仕事を持つ母親になって、母への見方も変わったと言う。

「現在よりも子育て世代に対する支援が充実していなかった時代から、愚痴ひとつこぼさずに仕事と家庭を両立し、今では経営者として活躍している母に対して、心から尊敬の気持ちが湧きました。当時の母の苦労を想像し、これまで与えてもらったことに気づき感謝できるようになりましたね」

少女時代の結さんの埋まらなかった心の空白に、あたたかい感情が満ちていった。

母からの言葉をお守りにし、結さんはより羽ばたいていく。

誰よりも正義感が強く、真面目で、それゆえ自分に対して厳しかった彼女が、「わたしは、わたし。自分を信じ、まっすぐに愛する」をポリシーとして、胸をはって進んでいけるようになった。

今後のビジョン 行政職の経験を活かして

結さんは、好きな仕事・好きな場所で自分らしく働く“ありたい私”を実現した。同じように、地方で自分らしい働き方を実現したいと考える人を広報面から支援する道を進む。

彼女に今後のビジョンを聞いた。

「個人の方のサポートも引き続き行っていきますが、自治体や公益団体、社会課題を解決しようと取り組んでいる会社との協業をふやしていきたいと考えています」

「事業者も行政も、地域を良くしていきたい思いは同じです。ただ、地域の皆さんの話をお聞きしていると、やはり行政ならではのとっつきにくさがあり、一緒に何かやろう、相談してみようという相手にはなりにくいようです。行政側も、コミュニケーションに課題感を持っています。行政出身である私が事業者や住民との架け橋となり、ともにいいまちづくりができたらと思っています」

結さんが地方にこだわる理由を聞いた。

「兵庫県猪名川町は、私が生まれた川西市の隣町で、親戚もいたので地元同然でした。都市部で暮らしていたこともありますが、地元を一度離れたからこそ、この場所の良さを改めて感じました。自然が豊かで、食べ物も美味しく、人の距離感も心地いいこの地域が好きです」

「同じように、日本の各地には個性を持った素敵な地域がたくさんあります。地元を愛する人が、好きな場所でやりがいのある仕事をし、心豊かに暮らしていける世の中にしていきたいんです」

「オンライン化も進み、働き方も変化してきました。地元を出ていかなくても、好きな場所に住み続けながら好きな仕事をする選択肢があることを、子どもたちにも伝えていきたいです」

結さんはこれからも地域の縁結び役として、人と人とのコミュニケーションを円滑にし、生き生きと働く人を増やしていくことだろう。

西楽 結(Nishiraku Yui)

PRプランナー / MUSUBI LAB.代表

 市役所での広報部門マネージャーなどを経て、2023年にPRプランナーとして独立。関西・北摂エリアを中心に、主に地方企業に向けたPR・ブランディングのコンサルティング・伴走支援を行う。2024年からひょうご産業活性化センターの経営専門家としても活動中。

【Information】MUSUBI LAB. 公式HP  / Instagram 

結さんのサービス詳細(PRの伴⾛⽀援、ブランディング・広報物制作、撮影、ライティング、広報・PR講座など)はこちら

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編集後記

本編に入りきらなかった結さんの人柄が伺えるエピソードを紹介します。

市役所に退職の意向を伝えた際、尊敬する女性の上司の方が休みの日に彼女が住む地域まで来てくれたことがあったそうです。

上司は結さんの想いを聞き「私はあなたのことが大好きだった。これからも応援してるよ」と伝えてくれたそうです。彼女が周りの人とのコミュニケーションを大切にし、誠実に人間関係を結んできたことが想像できました。

クライアントに寄り添いPRプランナーとして伴走する彼女は、プライベートではサッカーをしている小学生の息子さんの伴走者。息子さんのことを話す彼女はとってもやさしい表情を浮かべていました。

働くも、子育ても自分らしく。筆者も結さんのように人とのご縁を大切にし、キャリアを歩んでいきたいと思いました。

ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました。(執筆者:江川ともよ)


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